様々な実例とおまけ

以下は、いただいた様々なプチコメントです。参考にしてください。

  • 「(日本で)人材派遣会社に登録しているネパリを見かけるようになりました。スーパーの品出しやレジ、クリーニング工場での作業やホテルのベッドメイキングなどがあります(KS)」。

  • 「(ネパールで)面倒くさがらずに頼んだ事をしてくれる。頼みごとをすると、ノーと言えない。でも約束した事を忘れやすい。山岳国のため、体力があり、運動能力も高い人が多い。ミリ単位、分単位の要求は対応できない人が多い(MK)」。

  • 「(ネパールで)うちに来た工事(電気、水道、浄水器)の方々は、うちにあるものを勝手に使ったり、汚してゴミもそのままだったので、そういう教育は必要だと思いました(SY)」。

  • 「(日本で)深夜の弁当屋さんのラインで働いていたネパリがいました。知り合いがビルメンテの仕事をしていて、試しにネパリを雇ってあげていたみたいですが、ちょっと使い物にならなかったようです。農業や工場ラインがやはりベストでしょうかね?(YS)」。

  • 「(ネパールで)私の知っているお店の(日本人)オーナーは、うまくいかないとすぐ怒ってしまうので、ネパリが居着かず、あなたたちの商売ではなぜ皆が辞めないのかと尋ねます。私は従業員を家族のように考えていると伝えています(YF)」。

  • 「(ネパールで)上司も作業者の中に混じってわいわいいいながら仕事を進めるのが一番。指示だけ出して、勝手にやってなさいというやり方はうまくいかない(YU)」。

  • 「(ネパールで)誉めると伸びる。ネパリに限らないが、日本の何でも許容する道徳観は彼らに尊敬されない(MK)」。

<おまけ1:ストレスフリー>

ネパール人はよく、「テンション、テンション(「忙し、忙し」とか「ストレスだらけだ」の意)」というが、カトマンズで足心道の道場を開いた日本人の友人が、私の足ツボを押さえながらこう言った:「日本人のストレスのツボって、みんなごりごりで、指がなかなか入っていかないんだけど、ネパール人のそこはぷよぷよで、すこすこ指が入るんだよね」と。そう、ネパール人は根っからのストレスフリーなのだ。

<おまけ2:終わり良ければ全て良し>

「(ネパールの)ソーシャルワークで妻が援助していた女性がいた。DV被害者である。ある時、妻に電話してきてこういった。『あなたの提案のお陰で救われたわ。今は仲良くやっています!』。どうしたのか尋ねると、ある日、フライパンで撃退したらしい。暴力夫はそれ以来おとなしくなり、皿洗いすら手伝うようになったとか。妻は、『そんなこと、ひとっ言もいってない!』と、首を横にぶんぶん振っていた。何年経った今も、その女性は未だに電話をかけてきてはそのことを感謝するらしい…」。

<おまけ3:交通事情から見えるもの>

狭い道を団子状になって右往左往と行き交うネパールの交通事情。妻と私がネパールに初渡航した頃、ネパールにはたった一つしか信号がなかった。カトマンズのタメル・チョークだ。確か日本政府の寄付だったと聞いた。妻の実家に近い、茨城県稲敷郡河内町の友人が、町には一つしか信号がないと大いに自慢していたのを、散々茶化した後のことだった。日本にもそんなところがあるのか…。ところがそんな国が存在したのだ!国に信号が一つしかない…。これが国なのかと驚愕した。走る車がないのか、渡る人がいないのか、全く理解できなかった。

当時ネパールは、内戦中の真っ只中だった。電気もまだ、来たり来なかったりの時代だった。信号の赤青黄色は真っ黒だった。青が左か右かも識別不能だった。第一、それが何なのか、何のためにそこに立っているのかすら露知らず、カトマンズっ子たちは、信号の真下になぜか立ち続ける警官の脇を、ドリフトさせながらバイクで駆け抜けていた。1999年の頃だ。

交通事情は、そのお国事情を如実に示す一番の縮図だ。私は真剣にそう考えている。混沌としたネパールの交通。皆がすれすれで走る。物凄い距離感だ。それでも事故はほとんど起きない。車間距離を十分に取らないと直ぐに事故に繋がる日本では、考えられない現象だ。ところがネパールでは、一見ぐちゃぐちゃに走っているようで、実は互いを大いに意識し合っている。いや、本能的に感知し合っているという方が妥当だろう。人との最低限の距離を保ちながら激走している。日本ではなかなか見られない芸当だ。ところが少しでも接触すれば、大げんかにもなれば、大きな人垣となる。

当時、首都といえども道路のあちこちで牛が寝転がっていた。雌牛はラキシミ神である。なのにラキシミたちは、チープな有鉛ガソリン中毒で完全にラリっていた。渋滞の車のマフラーからは、もうもうと煙が吐き出されていた。その脇で、ラキシミたちがうっとりと寝そべっているではないか。完全にいっている…。そう思った。彼女たちのすれすれを、黒煙を巻き上げながら、誰も気にすることなく走り去っていた。私はヒンドゥー教徒ではない。だが、牛たちが可哀想で涙が出た。

少し田舎に引っ込むと、車道と呼ぶには程遠い道路に、色んなものが横切っていく。大人、子供、牛、野良犬、鶏、アヒル…。道路は誰のものでもない、みんなのものだ、といわんばかりに、皆がそれぞれのペースで歩いていく。野良犬以外は轢き殺せば罰金だ。鶏よりアヒルの方が高い。アヒルはよたよたちんたら歩くからだ。それすらも轢くというのは、ネパリにとってもあり得ないようだ。だが突然疾走して来る鶏は、まだ仕方ないという。恐らく日本でいえば、昭和20年代30年代の田舎の道路事情だろう。

だが当時、道路に飛び出す一番危ない輩たちがいた。反政府軍に雇われた若者たちだ。カトマンズのど真ん中であっても、突然2~30人の青年たちが手を繋いでわらわらと出没し、道を牛耳っては人間バリケードを作り、すべての交通を封鎖していた。こっちにも事情がある。早く宿に帰りたい。バイクで突破しようとする私を、手を伸ばしては捕まえようとする。中には、刃渡り50センチはあろうト殺用のナイフ・ククリを持っている。こっちも必死だ。負けてたまるかと激走していた。今はただの懐かしい思い出だ。

だがなぜか、悲しい思いに駆られた。それはその若者たちが、自分が何をしていてどこに向かっているのかすら、誰も何も全く理解していなかったことだった。元からその日暮らしをしている学生たちだ。新しいものには何にでも飛び付く。そして熱も直ぐ冷め、別の憂さ晴らしを探す。その若者たちも今は40歳前後の大人になっていることだろう。彼らに聞きたい。君はこの20年間で何を学んだのか。何を見て、何を思い、この20年を過ごしたのかと。

話がすっかり頓挫してしまった。ついつい我を忘れる。交通事情の話だった。では話を立て直そう。やがてカトマンズにも多くの信号が立てられていった。だがなぜか必ず警官が立つ。そう、未だに多くの信号には電気を通していないのだ。通電がないのではなく、わざとスイッチをオフにしてある。実はしばらく、オンにして使用していた時期もあった。ところがだれも信号を見ない。好き勝手に道を渡る。中には取り付かれたかのように、左右に目もくれずに渡り切ろうとする。驚異的だ。あれも一種の宗教か。車やバイクの方が減速せざるを得ない。それでもまず滅多に事故が起きない。日本なら、あっという間にミンチ状態だ。私も、幾度も急ブレーキをかけさせられた。こうしてネパールも、欧米諸国に一生懸命倣い、追いつけ追い越せと突っ走ってきた一つの小さな縮図を、ここに見るような思いがする。

話を大事な本論に戻そう。人々は、信号には目もくれないのに、お巡りさんの手旗信号にはじっと注意を払う。これが現在のネパールそのものである。感情を持たない物よりも、感情を持つ人が大事なのである。お巡りさんの顔を皆がじっと見ている。信号の存在すら気にせず。ところがさらに興味深い現象が起こる。何と、お巡りさんがいない方が渋滞しないのだ。もちろん交通量があまりにも多い交差点では、お巡りさんなしには秩序は保たれない。だが、そこそこの交通量では、誰も立っていない交差点の方が、はるかに渋滞が少ない。皆が自分の判断で交差点を渡るのである。それでも、交差する人、車、バイク‥一切の接触事故も生じない。これは、日本の社会には脅威でしかない。

ところが一人だけ、圧倒的カリスマ性を迸らせながら、交差点に君臨していたお巡りさんがいた。他のだらだらしたお巡りさんとは明らかに一線を画していた。彼が詰所から出てきて、別のお巡りさんと交代するところも幾度か見たが、その場の空気すらがらりと変わった。てきぱきさっさと、自分の職務に高いプライドを持って車を掃き続けるのだ。彼の動きに一切の無駄も見られなかった。笛の音までが違って聞こえた。全てが締まっていた。その交差点だけは、ぴんと張り詰めた心地よい緊張感があった。当然、自動車もバイクも一味違った止まり方をした。日本からの退職警官の方が、しばらくボランティアで交通課の指導をしていた時期もあった。恐らくはその方の愛弟子か。あのお巡りさんのモチベーションは何だったのだろう。一度はインタビューすべきだったと後悔しているほどだ。

これはあくまでネパールでの話だが、会社や企業も同じである。ちくちく細かい指示を出さない方が、社員は大らかにのびのびと仕事をしている場合が多い。管理しようとし過ぎると、元気な職場環境を、窮屈で寒々しい場所に変えてしまう。常識や社会規範という見えないルールが多い日本ですら、下手をすると社員の荷を増やすばかりで、喜びを持って働く気概を奪っているかもしれない。社員全員をエリートに育てることは不可能だ。ネパールの交通事情から、そんな原則を学ばせてもらった気がする。

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